昭和五十年三月二十三日 朝の御理解
御理解 第九十節 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつ          かしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから          ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらう          のぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆく          うちには徳が受けられる。」
 只、辛抱しとるだけではいけない。お徳が受けられるような辛抱でなきゃおかげにはならない。値打ちがない。只、ぐっと堪えておく辛抱だけではおかげにならん。
 辛抱していくうちには徳が受けられるという辛抱でなけりゃならん。堪え性根が良かだけては徳にはならん。神のおかげで、神様のおかげで開くのぞ。
 これが辛抱しとるうちにはおかげが受けられるというその過程の事。神のおかげで開かせてもらうのぞと、いうならば、神様がおかげを下さるという事は、どういう事かというと、願っておる事を今、聞いて下さるという事ではない。匹夫の凡人から開くのじゃから、ものがむつかしいとこう言っとられる。
 匹夫の凡人が、いうならば神様へ向こうてお縋りする。この九十節というのは、お道の教師に下さった御理解と思うのですけれども、これは教師、信者を問わない。
 匹夫の凡人から、信心を始めさせてもらうのだから、ものがむつしゅうて暇がいる その暇がいる間がおかげなのである。その暇がいる間がおかげと思うておらねば、いわばお徳が受けられるような辛抱に繋がらない、ね。わかるかな、そこのところが 神様のおかげで辛抱させて頂けるような信心、おかげでなからなければお徳は受けられない。ここんところをわからなければいかん。辛抱して行くうちには徳が受けられると。ならその辛抱して行くうちにです、只、無念残念といった心で辛抱する。
 只、もう本当に只自分が堪えてさえおけば良いというのじゃない。堪えるとか、堪える、忍んでいくという事、ならそこがね、神様のおかげでとおっしゃる。神のおかげで開く。神様のおかげと実感させてもらい、神様のおかげと神様との交流というものがです、どういう中にあっても、あっておる実感があるから、辛抱が出来る。
 お徳の受けられる辛抱が出来るのである。それなしに例えば、辛抱とったって、十年辛抱したから、二十年辛抱したから、三十年辛抱したからおかげになる事はない。 身に徳が受けられるという事はない。その辛抱しておる間がです、神様のおかげですからにならにゃいけん。それこそ神に辛抱せいよと、神に縋って辛抱さしてもらうという事は、神様との交流を頂きながらという事である。
 だからそういう辛抱だから、その辛抱しておくうちには徳が受けられる。徳が受けられるたら、もういわばこっちのものである。
 限りないおかげをこうむっていくのだというのです。只、普通いう辛抱さえしとけば良いというのではない。その辛抱しなければならない事柄の中に、いうなら難儀の中に神様との交流、いわゆる神のおかげというものを感じていかねばならん。
 又感じられるような信心でなからねばならん。
      ※                ※               いよいよ今日は春の御霊様の、春の御霊祭です。それは春秋の例えば大祭に皆さんがそれこそ神恩奉謝の真を捧げて、御大祭を奉仕される。又は頂かれる。
 それこそ氏子と神様と、その感激の中に受けられるお礼を言い、言われる。それが御大祭だと思うです。いわば霊様の大祭である。
 もうそれこそ合楽教会の縁に繋がれる霊様達が、今日のお祭りを待ち望み、願っておるわけです。もう本当に合楽に御縁を頂いている限りの霊達、もう数で言うたらどれだけあるやらわからん。その霊達がね、何と申しましょうか、夜を徹して霊様の気分ようお祭りを頂かれるように、させて頂いてわけです。
 けれども、御広前のすぐ横が楽室、その楽室の横で私は寝ませて頂いた。そしたらそれこそ何千何万人の声やらわからないような、ちょっと聞くと呻き声のような、それが丁度御本部あたりで、沢山何万人が集まって、大祓いの奉上したしますよね、一つのリズムになって、じっと目をつぶって頂いておると、沢山の人の声が唱和して、それが一つのリズムになるでしょう。殊に沢山、どれだけあるかわからない霊達の声がね有難い、勿体ない、いうならその歓喜の声をあげておる。
 有難しというような、一つの呻き声のようなね、素晴らしい、どれだけあるやらわからない人の声を聞いた事があるのです。どういう事だろうかと思うたら、神様が明日御祭りを受ける霊達の歓びの声だと頂いた事があるです。二十五年も前です。
 ところが昨日は他主丸の共励会で、皆さん帰って来たのは十二時一寸過ぎでした。 それから又、信心話をさせて頂きましたから、丁度二時半まで、文男先生どんが兄弟、それに桜井先生、末永さん、若先生、もう信心話を一生懸命しよるともう、時間のたつのがわからない位、あらもう、あんた二時半もあるが早う帰らにゃ、私は今から霊様の事せんならんとに、お供えだけは私がちゃっと、もう十二時前にさせて頂いた。私は昨日お供えさせて頂きながら思ったのですけど一番上にお茶とお水が、お水も冷たい氷を浮かして、もうそれこそ【 】の乾く時に生温かいとではいかんですかね、やっぱり冷たいのを、それからお茶も、よいお茶じゃありませんけども、ほうじ茶がありましたから、それをもうそれこそ濃い濃いと出してお三宝にのせて、食堂から此処まで持ってくる間にね、そのお茶のほうじ茶の香りがプンプンするわけです。 もうそれとね、プンプンする、おいしかりそう、私も後でそのお茶を頂きましたけど、その匂いを嗅ぎますからもう感動、とにかく手がふるうごと感動する。
 私はね、信心とはね、感動だと思うですよ。神様との交流という事はね、感動のない宗教なんかもうおよそ、もうつまらないです。
 只、形式教というのは、それでお供えを頂いて、暫く待たせて頂いとったら皆が帰って来て、そしてそんな話でした。三時半には此処に出て来なん。
 もう一時間しかない。それですぐ私は御神前に出た。もう私が二時半に皆を送り出して御神前に出た。食堂に電気が灯いとる。もう上野先生が御神飯炊きに起きとるとです。二時半に起きる。それから私は御神前に出らして頂いたんです。そしたら、もう何というのですかね、神様から、もう本当に簡単な十分位かかったでしょうか。
 神様の御挨拶をするのと霊様の御挨拶、それはね、今日交流が出来る事の為の準備が出来とるという事を頂いたんです。
 沢山皆が参って来る。それ霊様達も受ける心ができる。有難い勿体ないで受ける事がでける。もう交流するばかりの事ができておるからね。いうならば二時間も三時間もいうなら此処で御祈念をさしてもらろうて、そこに霊様達の明日受け【 】その事を一寸前置きにしておかねばならんのですけど、昨日はそういうわけでした。
 その二時間半という十二時から二時半というその芯という、それこそ霊様の話、信心の話現在金光教の話、もう本当に尽きる事のない話、そういうお話そのものがね、もう霊様達の今日のお祭りを受けられるその準備が出来ておる。
 御神前に座らせて頂いたら、座らせて頂く時に、はうたにサノサというのがありますね。あのサノサのね、調子でね、こういう事を頂いた。
 只、単に肉体【 】や金銭の中でできる仲じゃなし、至上の愛と真心で二人の仲はできたんだという唄の文句です。肉体や金銭で私達は出来たんじゃない。もう至上の愛と真心で出来た仲とこういうのである。
 例えば、霊達の今日は喜こんでもらわねばならん。例えば、私達の信心というものがね、賤しい心ですよ、本能的に欲望に駆られてもう、それこそ抜き差しならない。そうして一緒になったのとダタメが違う。
 浮気男のくせとして、三度のよもやにひかされて、女房にするとは洒落かいなという博多にわかの文句にありましょうが、そういうものじゃない。
 いうなら私はとあなたの仲というのは、至上の愛と真心が一緒になる事になったんだというのです。おかげは頂かんならんから、お供えをする。おかげを頂かんならんから参りよるとそういう、賤しい【  】ものでは決してない。
 只、そうさせてもらわねはおられない、至上の愛、これ以上の愛はなかろうと思われるような愛と真心が私とあなたの仲になるんだ。明日はそういう結婚式のようなものだ、いうならば。
 わかり易くいうならば、結婚して床入りのようなものだ。いうなら交流がなされるからこそ、良いものが生まれるのだ。そういう例えば、明日はいよいよ、結婚式の事がなされる。用意おさおさ怠りなき程しの働きというものがあっておるんだ。
 今日お祭りを受ける霊様がです、いうならば私との交流、そういう例えは交流があってこそ辛抱が出来るのであり、交流という事がおかげなのだ。
 自分の思うようには一つも道は開けんけど、神様との交流がです、いよいよ有難いこよない楽しいものになって来るのだ。そういう信心を繰り返して行くうちに、徳が受けられるというのです。交流したそこからです、いうならば良いものが生まれてくるという事になる。
 昨日、ここの田中さん達が親子連れで今日のお祭りのお供えやら、皆持ってお供えに持って見えてからのお届けでした。今朝からお夢を頂いた。この春におじいちゃんが亡くなられたが、それにね、それこそ霊様、又は皆、普通の者もおる中にです、親先生を中心にして、会食をしているところを頂いたというのです。
 それはどういう事かというと、霊様だけじゃない、霊様達も例えば勿論ですけれども、普通の事は皆さんという事、この世にあるものも親先生のお取次を頂いてままになってあるなら、霊様も又親先生のお取次を頂いてままになって、親先生が頂いておるものと同じものを、明日は頂けるきだというお知らせ。
 私と一緒に会食をしている。私と同じものを食べておるというもの、私と同じ有難さ、私の頂いておるいうならば、おかげをです明日はもう、そりゃ霊もピンからキリまであります。けど明日という明日は、夕べの事です、今日の言葉でいうなら今日という今日です、いうなら無礼講のようなもの。そしていうなら今日一日は例え地獄におる霊でもです、今日一日は極楽の味わいを、親先生を中心にして頂ける程しの事なのだという事です。
 とても、とてもね、神様の事は尚更、わかれば先祖の事は大事にせねはおられません。けれども、そういう霊様の働きといったような事をね、わかればわかる程、とてもとても、思いを込めなければおられないのであり、それこそ抱く子も這う子も、それこそ家族中の者がお礼をそういう大事な喜びを、待って々おる霊様に対してもですそれこそ玉串の中、取り持たせて頂くところの働きがあっおるのですから、その働きに私共も、臨ましてもらう便乗させてもらて、霊と私共と一緒に喜びあえるような、おかげを頂かねばおられんのである。
 私はその事を今日の霊様の事を申しましたがです、そのむつかしゅうて暇がいる。 神のおかげで開くのぞと、そういう例えば、自分の願いというもきは感謝しなくてもです、その日々の信心の営みというものは、楽しゅうて有難うしてという、それは辛い事もある。苦しい事もある。食べるに食がなく、着るに衣がないという事もあるけれども、そりゃ苦しい事もあるんだけれども、神様とのいうなら交流、霊との交流が日々なされておる。その感激とか感動、その実感が五年十年、それこそ何のそのという事になっくる。そいう信心が積み重ねれてこそ、はじめてです、辛抱して行くうちにはです、徳が受けられるという事である。
 徳が受けられる、同時にです、私共信心さして頂く者の、本当のいうなら信心を目指すという事は、のっぴきならないいうならば、後にも先にも引かれんごとなったから、信心するといった事ではなくて、有難いから、勿体ないからの感動がね、信心、神様に向けられるといったような、おかげでなからねば良いものが生まれて来ない。 一時はどういう難しい事があってもです、辛抱して行くうちには徳が受けられる。 そういう信心を願わなけれはならん。とりわけこれはお道の教師に対して、例えば教会を持つ、布教所、そして教会になる。そして沢山の人が助かるまでには、そう簡単にひらけるものじゃない。
 なら、何十年たっちゃ開けんところがある。只、辛抱しとるだけで徳が受けられそうなものだけど徳が受けられない事実を私共が思う時にです、只、辛抱しとりますだけではいけないという事、神のおかげを頂きながらの辛抱でなけれはいけないという事。そこに私は信心の有難さというか、徳を受けていく、尊い信心にふれて行く事が出来るのです。
 今日も申しましたように、いよいよ霊様との間にです、交流するいうならば、準備だけは用意おさおさ怠りなしという位に出来ておる。いうならば皆さんがお参りをなさって、いうならば霊様の前に出たら、霊様の方が待ってござるという感じ。
 そういう私は霊の喜びと、私共の喜びとかね、此処で一つ、一致点が出る。そういう有難い、感動的なお祭りにならなけれはならんと思います。
 信心の難しいというか、まあ実際は難しくはないけれども、やはり難しく感じる。 ああ、とてもあげん朝参りはせんならん、なら私どんでは出来んという位、難しい ところがね、ひとたび信心をさせて頂いて、朝参りをはじめさせて頂いて、神様と交流しだすからおかげが楽しいのじゃない。神様と交流し出すその喜びがです、いうならば朝早起きも、朝起きても有難いものになってくる。もうそこには難しさというものじゃない、もうそれこそ今の自分から取り除いたら、もうそれこそ何もないというか、生き甲斐すらないところまで信心を高めて行く、おかげの為の今日は御理解でしたね。どうぞ。